1989年に名門PL学園からドラフト外で西武ライオンズに入団した野々垣武志。
その後広島東洋カープ、ダイエー・ホークスに移籍して代打の切り札として活躍した野々垣が語る、西武ライオンズ時代に感じた常勝軍団の強さ、厳しさ、勝利への信念とは!?

高校生気分が抜けないまま自主トレに参加

この年は、同期入団に潮崎哲也、鈴木哲、大塚光二さんら、他のチームでは野茂英雄、佐々岡真司、与田剛、佐々木主浩さんら、後に名球会入りしたり監督やコーチに就任するなど、球史に残る蒼々たるメンバーが1年目から大活躍しました。
西武ライオンズは森祇晶監督が指揮を執られていて、ヘッドコーチは黒江透修さん、守備走塁コーチは伊原春樹さん、打撃コーチは広野功さんでした。
野手レギュラーメンバーは石毛宏典さん、田辺徳雄さん、辻発彦さん、清原和博さん、デストラーデ、秋山幸二さん、平野謙さん、吉竹春樹さん、笘篠誠治さん、安部理さん、森博幸さん、とものすごいメンバーが揃っています。
先発投手は、郭泰源、工藤公康さん、渡辺久信さん、渡辺智男さん、石井丈裕さん。抑えは鹿取義隆さん、潮崎哲也さん。こちらもオールスターのような豪華なメンバーです。
1月の自主トレは高校生気分が抜けないままだったのを覚えています。トレーニングコーチのもと、新人が一緒にアップというか、ランニングメニューが多くて、ほかに補強トレーニングで腹背筋やスクワットにキャッチボール、ペッパーで、実技はあまり記憶にないです。最後に多摩湖一周7キロを走って終わりでした。
キャッチボールは同級生の宮地克彦とやっていました。同じ関西出身で中学時代から知っていたので、親近感がありすぐ仲良くなりました。宮地はドラフト4位入団で僕がドラフト外入団で、投手と野手でポジションも違うこともあって、お互いに気楽だったんだと思います。
練習後は宮地の部屋へ行って、床暖房をガンガンに効かせた部屋でファミコンをやりました。宮地はめちゃくちゃファミスタが上手く、いつも負けてばかりで悔しくてファミスタの練習をしたくらいです。
一方で国学院久我山高校から同期入団の佐伯秀喜は、なぜか自分に対してフレンドリーではないなと感じました。今考えれば当たり前のことなんですが、どちらかが生き残るというプロの厳しさを、僕は全く意識していなかったんです。なぜ普通に話したり出来ないのかなとか不思議に思っていましたが、佐伯からすれば、なぜ同じ内野手なのに仲良く話かけてくるんだろうと思っていたでしょう。と、こんな感じで高校生気分のまま自主トレが終わり、キャンプインしました。

高知県の春野で2軍キャンプがスタート

 
キャンプは2軍スタートで高知県の春野球場で行われました。当時の2軍監督は元西鉄ライオンズで活躍された和田博実さん。守備走塁コーチに広瀬宰さん、打撃コーチに鈴木葉留彦さん、投手コーチに森繁和さんらがいらっしゃいました。
宿舎に着くと部屋は4人部屋で、部屋長は当時30歳だった清家政和さん。ヒザの手術をされたあとで、調整で2軍スタートということでした。ひと回りも年上の大先輩で、ましてや同じポジションの方と明日から野球をやることを考えると、何か不思議な感じがしました。ほかの2人は元やり投げ選手だった日月鉄二(たちもり・てつじ)さんと佐伯秀喜でした。
夕方にミーティングがあり、キャンプ初日からの予定や練習についてマネージャーや監督からの話がありました。「本気でやらないものは所沢に帰ってもらう」と言われ気が引き締まりました。
キャンプ初日の朝を迎えると、朝食前に選手、監督、コーチ全員参加で桂浜の砂浜まで往復500メートルほどの散歩。砂浜で体操をして、そこで指名された選手はみんなの前で海に向かって一日の目標や一年の目標を大声で叫ぶというのが伝統でした。どこか恥ずかしかった思い出があります。
朝食は、焼き魚、干物、野菜、果物、伊勢海老やカニの味噌汁など美味しかったです。食後は部屋に戻って着替えてバスで春野球場へ。20分ほどで到着して、練習メニューを確認したら練習開始です。
アップが2時間近くあり、キャッチボール、ペッパー、投内連携、バントシフト、ランナー付き守備練習、内外野ノックの後、守・走・ティー・打のローテーション、その後に特打と特守があり、最後にランニングでやっと終了。宿舎に戻って夕食後には夜間練習があります。
これを5勤1休くらいのペースで、選手のコンディションを考えながら4勤1休にしたりして約1ヶ月間行います。
プロ野球選手としては体が小さく体力のない僕は、毎日朝から夜間練習までの練習でバテバテでした。バットスイング3割と守備練習7割位の比率で内野手ということで守備を重点的に練習していました。外野の選手はバッティング練習がメインで羨ましくてしょうがなかったです。

他球団ではレギュラークラスの選手が西武では2軍に…

オープン戦に入ると練習日はキャッチボールと投内連携・ノック・ローテーションで終了になり、時間も短縮されるので体力的には楽になります。その代わりに結果が悪いと精神的にきつくなってきます。若手もベテランも毎日の結果で評価されます。慣れない若手はプロセスを忘れてしまい、余計に結果が出なくなり、気付いたときにはシーズン終了というこもあります。結果を出すまでに時間があるように見えますが、毎年ドラフトで新人選手が入って来ると、同じ数の選手が退団していくという厳しい現実があります。
特に当時のライオンズは野手のレギュラーは決まっていました。控え選手は打てる選手よりも守れる選手が重宝がられ、大久保博元さん、鈴木健さん、垣内哲也さんら、他のチームだとバリバリのクリーンナップを打てるスラッガーでも2軍でした。
打線が2、3点取れば勝てるという強力な投手陣だったので、勝てる試合は絶対に落としたくないという監督の方針だったのかなと思います。
投手も他のチームならローテーション投手になれるような方が2軍に3人ほどいて、ローテの谷間に1軍に呼ばれて完封勝利。でもまた2軍に戻る、ということもありました。
守備に関しても、他のチームに行けば守備も打撃も1軍レギュラークラスの選手が2軍にいました。そうした厳しい環境でも若手は生きる道を見つけなければなりません。
こうしてキャンプの前半が終わりました。次回は1軍に帯同したキャンプ後半について振り返ります。

●文・野々垣武志(ののがき たけし)
1971年7月8日生まれ、奈良県桜井市出身。1989年にPL学園からドラフト外で西武ライオンズに入団。1995年にトレードで広島東洋カープに移籍し、代打の切り札として活躍した。引退後はPL学園の先輩である清原和博の運転手兼秘書を務め、同じくPL学園の先輩である桑田真澄が主催する野球教室でコーチを務めた。現在は野球指導者、YouTuberとして活躍している。
≫野々垣武志が出演するYouTubeチャンネル「恋するスポーツ」はこちら

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